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更新が遅くなりました(すみません)! ケアする上で葛藤は付きもの。苦悩からできるだけ逃れたいと思うのが人情ですが、そこのところの…

北海道の中村さんへ
奈良の森口です
2016年5月27日 5月に入りさわやかな日が続いています…と書き始めていたコラムが、原稿を書き上げる頃には「早くも梅雨入りか!?」と思うぐらい蒸し暑い日が増えてきました。前回のコラムでは、日々のケアの仕事のなかに「キラリと光る宝物」に出会えることがあると書いておられましたね。私もこれまで、本当にハードな仕事をしながらも、とても元気なケアのプロに出会ってきましたが、彼女たちはそんな宝物に日々感動しながら働いておられるのだろうなぁと想像しました。


大阪の「原っぱアトリエ」(親子で楽しむ幼児向け造形教室)を見学(2016年5月)。10メートルの布に玉ねぎの染料で描かれた恐竜。

今回の私のコラムのテーマは「問うこと」です。私たちが日常生活のなかで出会うさまざまな疑問や葛藤に対して、「答えを出すこと」が大事なように思いますが、ケアにしても研究にしても、何かを深めるためには「問うこと」こそが大事だと思うようになりました。

私は今、キリスト教主義の大学で教員をしています。私自身はクリスチャンではなく、実家は天理教だったり、それなのに「仏教とケア」(薬師寺インタビュー動画にリンク)というシリーズのインタビューを担当していたりもするのですが(笑)、そもそも信仰をもつという感覚自体が自分のものにはなっていません。けれども、現在の大学で過ごすなかで、キリスト教主義が「いいな」と感じたことが何度かあります。
そのうちの一つの場面が卒業式です。キリスト教主義ですから、まずは讃美歌から始まり、祈祷があったりして、公立の学校しか知らなかった私は最初その雰囲気におおいに面食らいました。教員になってから何度かそのような式を経験するうちに、あるときふと、「キリスト教主義の祝辞は押し付けがましくない」ことに気づきました。

たとえば、公立の大学の卒業式で、学長が卒業生に対して「本学の卒業生としてふさわしい役割を社会の中で果たしていってほしい」という希望を祝辞の中で述べるとします。それが、キリスト教主義の大学では、神様に対して「今目の前にいる卒業生たちが、本学の卒業生としてふさわしい役割を社会の中で果たしていけるように、我々教職員は導くことができたでしょうか?」という「問い」の形になるのです。
どんな言い方をしようと、卒業生に対して「頑張らなければ」と思わせるようなプレッシャーを与えているという点では変わらないとは思います(笑)。けれども、それが「あなたたちはこうするべきだ」という「あなた」を主語にしたメッセージではなく、「問い」の形をとること、それも「自分を問い直す」ということはとても「いいな」と思った点です。


ミョウバンで色止めをすると、他の色もきれいに発色して感動!

「問い」の大事さについて考えるときに思い出すのが、「ケアする人のケア」のプロジェクトでもずいぶんお世話になった哲学者の鷲田清一先生です。医療や看護や介護の実践現場には、すぐには答えの出ない問いがたくさんあって、そのような場でこそ哲学が生きるはずとのお考えで「臨床哲学」を世に投げかけられました(『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』1999阪急コミュニケーションズ)。
もうずいぶん前に、鷲田先生の講演を聞きに行ったことがあります。ケアをテーマにした講演だったと思いますが、そのなかで「人生の中で、全く予想もしない、思いもかけないような辛く苦しいことが自分の身に降りかかってくることがある。なぜ自分がそんなめにあわなければならないのか、まったく身に覚えのないような事態に、ある日突然見舞われることがある。そのときにどう生きるか……」というような旨のお話がありました。そこに続けて仰ったのが、「そのときにどう生きるか――人が生きるということの意味のほとんどはそこにあるのに…」という一言でした。
この一言には、とても衝撃を受けました。その頃は、「不幸ごとに見舞われなければ幸せな人生」というぐらいの単純な思考しか持ち合わせていませんでしたから、「生きることの本当の意味」に初めて思いを馳せた経験だったように思います。

思えば、「老いを受け入れなければならない事態」や「他人の世話になりながら、なおも生きていくこと」は、「そのときにどう生きるか」というまさにその「問い」が立ち現れる時なのでしょうね。だからこそ、そこに「キラリと光る宝物」が生まれるのかもしれません。

最後に少し宣伝をさせてください。私は大学の仕事で「エピソード記述」という方法論について検討する研究会に3年前から取り組んできました。今年の2月に報告集を出しました。
「エピソード記述」は、研究の手法でもありますが、なかなか独特の手法でもあります。書き手(研究者だったり実践者だったり)が実際に体験して心を動かされたエピソードを書き起こし、その意味をまさしく「問う」ところにポイントがあります。「答え」を出すための手法ではなく、「大事な問いを、問いとして深めつづけていくための手法」というのが、「エピソード記述」だと思っています。

この手法を、今後はケアの現場で職員研修のような形で広めていきたいと思っているので、関心のある方はご連絡ください。
→ケアする人のケア研究所 http://caringsociety.net/lab/

森口弘美