あずきバーを見ると、いつも母のことを思いだす。子どもの頃、近所のパン屋さんでアイスを売っていて、夏になるとよくそこに買いに行っていたのだが、母が決まって言うのは「あずきバー買ってきて」だった。母の揺るがない「あずきバー買ってきて」。あずきバー=大人が食べるものという図式が私の頭の中にできてしまって、当時の母の年齢になった今の私は、最近好んであずきバーを食べるようになってしまった。

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母が亡くなって、今年で27年。その間、高校を卒業し、大学を卒業し、会社勤めをしてまた大学院に入学し修了して。いくつか仕事もしてたくさんの人に出会い、いろいろな経験を、時間をかけてしてきたはずなのに、「いつの間にか」という印象のほうが私には強い。母が最後に入院した秋はいまだに苦手だし、ピンチのときには心の中でいつも頼ってしまう。

2歳のときにシャルコー・マリー・トゥース病と診断されたものの、小さいときは病気や障害の受容なんてものはもちろんなく、小学校を卒業するぐらいまでは学校から帰ったらすぐに自転車に乗って友達と近所の公園などで遊んだり、家の庭にある木によじ登ったり、そこそこパワフルな腕白生活を送っていた。母親も「他の子と同じように」という方針だったし、できないことは助けてくれていたものの、親戚の叔母さんにも「すぐに手を貸すのではなく、自分でやらせてみて」といっていたと最近聞いた。奈良県が保有率全国トップというピアノももちろん我が家にはあって、段々麻痺の出だした手にも関係なく、工夫をしながら母のスパルタで毎日練習に取り組んだ。

シャルコー・マリー・トゥース病というのが、進行性であることで、小学生のときは学校にいる間だけ下肢装具を(いやいや)つけていたものが、中学・高校となるにつれて友達と遊びに行くのにも常時装具をつけるようになり、走れなくなり、階段を上るのも降りるのもしんどくなっていった。それでもまだ、いまに比べればずっと体は動きやすかったが、見た目にも明らかに大変そうだった私を、心配し冷や冷やしながらも母は見守ってくれていたのだろうと思う。

障害のある子どもにとって、母親というのは、障害が重度であればあるほどケアの主たる担い手になってしまうというだけでなく、実は本人にとってはそれ以上のとても大きな存在であり、まだ母から学ぶことをたくさん残したままで亡くなってしまったことが、いまは一番残念に思っている。
日常生活での工夫は自分で考えていけば済む話だし、大人になってからも別の生死にかかわるような病気にもなったが、それも自分で乗り越えればいいだけのこと。けれども、たとえば料理なんかは教えてほしかったことがたくさんあって、ここ数年、ヘルパーさんから家事支援を受ける中で特に痛感している。
姉とも母の口癖のマネをよくしていたが、まなざしや手の感触だけはマネのしようがない。

今年もお盆の時期がやってきた。砂地で一人では気軽に行けないお墓、誰か一緒に行ってくれないかな、と悩む日々である。

[執筆者]
太田啓子
[プロフィール]
シャルコー・マリー・トゥース病という難病により、車イスユーザーの障害当事者。現在は、仕事をしながら趣味を満喫しつつ、地域生活をしています。好きなことは、食べることときれいな景色を眺めてぼーっとすること。