学ぶための本、癒される本、楽しめる本…。 ケアに関するおすすめの本や、ケアと関係なさそうだけれど、ケアする人におすすめの本をご紹介…
今朝もいつもの路線で電車の運転を見合わせているというアナウンスが流れる。
年間自殺者三万人、田舎で育った私にとってこの数字は全くピンと来るものではなかったが、関東圏に越してきて電車での人身事故が日常なのだと初めて知った。
こうして遅れてくる電車をホームで待ちながら、胸がどこかざわざわとしてくるのだった。
一体この国の人達に何が起こっているのだろう。
そんな時、書店で真っ白な白衣の表紙のこの本が目に留まった。
死へ向かう人たちをなんとか生きる方向へ導けないか、目に見えない病はどうすれば治していくことができるのか、駅のホームで感じた薄らとしたやるせなさからこの本を読むことにした。
私自身も一年間カウンセリングを受けていた時期があったが、カウンセリングの有効性に疑問があり、意味があるのか?と思いながらもカウンセリングルームに通っていた。
自分の病気の治癒にカウンセリングが必要だったかどうかは今でも分からない。
この本では筆者の最相氏自身がクライエントとなって、カウンセリングを受けどの様に変わっていったかを「カウンセリング」の歴史やそれが日本に如何に導入され受容されていったかとともに描写している。
筆者が体感したからこそ得られる「カウンセリング」についての丁寧な分析、心の見えない病について精神科医と対話を重ねていく姿は、筆者が自分自身との対話を深めていく過程でもあるといえる。
「カウンセラー」という言葉は「カウンセリング」という言葉以上に曖昧だ。
「カウンセラー」も一人の人間である限り、患者との相性もありカウンセラー自身の心理状態も大きく治療に関わってくる。
Counsel、諸説あるかもしれないが語源的にはcon=共に・sel=取る→共に取る、一緒に歩を合わせ進んでいくのがカウンセリングであろう。
また沈黙や言葉にはならないごくわずかな変化など、言語化されない世界の深みにも耐えなくてはならない。
私がカウンセリングを受けている時は、例えてみれば的があるかないのかも分からない広大な宇宙空間にボールをひたすら投げ続けているような状態だった。
しかし、カウンセリングを受けることで、なぜボールを投げ続けているのか、どこに向かって投げればいいのか、そのボールの大きさや重さはどれくらいか、徐々に風景が立ちあがってきて当時の自分の心の状態をフラットに捉えることが出来るようになったように思う。
けれど、それは治療の一つの段階でしかなかった。
『確かにいえるのは、クライエントを支えるのはセラピストの存在そのものであり、セラピストもまた、クライエントの人生に自らを重ね合わせながら日々変化し続けているということだ。』
―セラピストはクライエントと分かち合う人、クライエントの自助を助ける役割を担う人だが、治療ではなく治癒を目指すと言えるのではないか。
しかもそれは一対一で関わるのではなく、システムとしてのサポートを行うチームの一員として。
河合隼雄氏の言葉によれば『心理臨床家が「深い」心理療法を行うことは、きわめて危険に満ちているといわねばならない。
その人の存在を深みから変えるためには、身体的にも精神的にも相当な組みかえが必要というべきなのであろう。』慎重に時間をかけて一人の人間の病と向き合う、そんな切実で忍耐を要する厳しい現場が今日も日本のどこかにある。
かつての日本には「カウンセリング」という言葉はなかった。
それを必要としない社会があった。
「カウンセリング」と名付けなくてもそうしたことを日常の中で自然と行っていたのではないか。
書店に行けば、数多の自己啓発書があるように「主体の確立」が近代以降要請されるようになって、社会への不適応者としてはじき出される人が増えたのではないか。
心を病むことはその人自身の心の弱さではなく、今の社会システムの中では当然のことのように思われる。
目に見えるものは目に見えないものに支えられている。医療だけではなく、心の病を社会全体でサポートしていける体制がもっと充実していくこと、そして最後はクライエントがもう一度自分の足で人生を進んでいけるようにすること、それは私達の生きる日常がより成熟していくことに繋がるのではないだろうか。
【執筆者】
上田薫
【よみ】
うえだかおる