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国指定の難病、シャルコー・マリー・トゥース病を患い、障害をもちながら地域生活する中で、よく思うことなどについて綴っています。電子…

―自分は、病者なのか、障害のある人なのか―そんな(どうでもいいような)問いを最近、自分自身に対してすることが多くなってきた。

2歳のときに、シャルコー・マリー・トゥース病と診断されて、もうかれこれ、数十年、この病気と付き合ってきた。この病気は、末梢神経障害が起こる進行性の病気で、昨年、難病指定されている。厚生労働省の発表だと、全国に6000人ぐらいこの病気の人がいるらしいが、私自身の日常生活の中では同じ病気の人と出会ったことがない。症状自体も私は子どものころから上下肢に麻痺があるが、発症年齢も、そして進行の程度も人それぞれ。

総じていえることは、緩徐性の進行で生命に危険はないらしい、ということだ。そのため、地域の病院に定期的に通っている人も少なくて、診てもらっても「何かあったらまた来てください」「みんな病院には来なくなっちゃうんだよね」とあまり真摯に対応してくれないことがままある。私もそんな一人で、情報もあまりなく、病気と真剣に向き合うことなくずっと生きてきた。

小学校・中学校の普通学校・普通学級を経て、そのまま高校、大学に進学した。子どものときは、今よりも障害が軽かったので、それでも補装具で通学していた。大学生のときに大きな手術を受け、大キライだった補装具からやっとのことで解放された。

そして就職。あこがれの神戸で一人暮らししながら、会社に調子よく勤めていられたのもつかの間、数年後にはあれもこれもと欲張りすぎたのがたたって、別の大きな病気を発症。そして、2年ほどの入院生活を送ることとなった。運よく致死率3割といわれる病気自体から回復はしたものの、臥床期間が長かったこともあって、退院したときには歩くことができなくなっていた。それからまた数年、在宅でのリハビリ生活を送った。PTの先生にも「もう僕の教えることはない」と投げ出され、一人でただただ歩行訓練を5年はしていただろうか。どんなに頑張っても、元のように歩けるようにはならなかった。

リハビリの期間が長くなって社会生活から離れれば離れるほど、人は孤独感と焦りをもつようになる。いい加減ひきこもりの生活に嫌気がさして、障害者福祉を学びたいと大学院に進学したのは、29歳のときだった。歩行することだけに執着するのはやめて、このとき初めて、車イスを併用する生活を決断した。行動範囲は格段に拡がった。

前までできていたことが、いつの間にかできなくなっている。ちょっとやらないでいたら、できなくなっていた。病気の進行というのは、そんなことでなんとなくわかるものだ。それは、老化現象とはちょっと次元が異なる話だ。私の場合は、それに加えて、だいたい10年単位ぐらいで大きな進行を感じることがある。いままで転倒しても手で踏ん張れていたものができなくて頭からこけるようになった、社会復帰までに数か月を要するような大きな怪我をするようになった、障害の程度が重くなってきて今まで通りの生活を送るには工夫の仕方を大きく変えないといけなくなった、といったことがきっかけだ。

3年ほど前、家で転倒し、腕の脱臼・靭帯断裂という大怪我から、歩くこと自体が怖くなってしまった。その後、極端に足の調子も悪くなり、初めて真剣に病気のことを調べようと、ネットで検索していた時期がある。専門に研究治療されているドクターを京都に見つけ、遺伝子解析、リハビリ、患者仲間との出会い、医療関係者はじめ多くの人へ病気の周知を目指す患者会の活動への関わり・・・と、私の世界は大きく変わった。この病気自体、治療法や薬はまだないが、研究や治験は確実に進んでいる。なにより、患者会に入って、多くの同じ病気の仲間と出会うこととなり、進行に伴う生活の見通しもある程度、つけやすくなったのは大きい。

確かに難病といわれる病気をもっていることは、生活上のしんどさや不安がとても大きい。私が今、期待することといえば、病気の進行がとまってもっと楽に生活できるようになればいい、ということだ。

一方で、これからも心底楽しいと思える経験もたくさんしたい。いまできていても、近い将来はできなくなっているかもしれない。チャンスは1回。私の持論だ。やりたいことはいま、できるうちにやっておこう。

「あー楽しかった」こんな風に人生が将来、締めくくられればいいなと願っている。

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執筆者:太田啓子
シャルコー・マリー・トゥース病という難病により、車イスユーザーの障害当事者。現在は、仕事をしながら趣味を満喫しつつ、地域生活をしています。好きなことは、食べることときれいな景色を眺めてぼーっとすること。