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ケアケア立ち上げ当初に出会った二人が語り合うコラム。 ケアだけでなく、接客業や教育など、人と関わる仕事の中にある「感情労働」が実…

北海道の中村明子さんへ
こんにちは。奈良の森口です。今年の夏は全国的に涼しい日が多かったようですね。
奈良もやはり過ごしやすい日が多かったのですが、週末が雨ばかりだったので、プールや海水浴などを計画しながらも断念しました。また来年の楽しみにとっておきます。

前回は、「ケアする人が癒され、支持され、力を発揮できる事」という、中村さんからいただいた言葉が、「ケアする人のケア」の事業を進めるうえで重要なキーワードになったということを話題にしました。中村さんのこの言葉の背景には、ケアの仕事に携わる同僚の言葉があったのですね。私自身がこの事業に携わることになった背景にも、自分自身の仕事の疲れがありました。そこで、今回は「ケアの仕事をする人のケア」について書こうと思います。

たんぽぽの家では、2000年から「ケアする人のケア」の事業を始めたのですが、そうした事業を進めている傍らで、組織の中で重要な役割を担っていた人が急に職場に来られなくなるという事態を幾度か経験しました。いわゆるバーンアウトという状態だと思うのですが、いずれも「バーンアウトとはもっとも縁のない人だろう」と自他ともに考えていたような人でした。
このとき私は、「ケアする人のケア」の事業を担当する一人として大いに悩みました。外に向けては「ケアする人のケアセミナー」だの、「支え合いの文化が大切」などと啓発しておきながら、足元の組織では大切な仲間が相次いで仕事を続けられなくなっていったのですから。

「仲間に対してもう少し何かできたのではないか」、「組織のためにもっと何かすべきではないか」、そんな思いにさいなまれ、悶々としていたのですが、しばらくそうやって落ち込んだ後で、ふと顔を上げてみようと思いました。個人のバーンアウトを、個人へのサポートや職場の改善というレベルでだけ考えていてはいけないと思ったのです。この仕事の重要さや価値を、社会全体がもっと認めることが必要で、それを実現するのが「ケアする人のケア」の役割だと考えたのです。

もちろん、「もう少し私に何かできることがあったのではないか」と仲間のことを考え続けることは、一人の職員として大切なことです。ただ、その後悔や反省を社会の変革に向けていくことで、「バーンアウトにまで追い込まずに済む仕事のあり方」や「たとえバーンアウトしても再起できる社会」を実現させ、結果的に個人を支えていくことにつなげなければと思いました。
どこまでそれが実現できてきたかというと、まだまだ道半ばですが、私自身は現在の大学での研究活動をとおして継続して取り組んでいこうと思っています。

さて、前回のコラムで佐藤さんが投げかけてくださった「感情労働」というキーワードですが、今から5年ほど前に研究事業をとおして取り組んだことがあります。・・・が、実は実は、今だから正直に表明しますが、10年以上に及ぶ「ケアする人のケア」の事業の中で、もっとも腑に落ちなかった研究だったのです(笑)。

ケアだけでなく、教育や接客業もそうですが、人と関わる仕事は淡々と事務的に行えるようなものではなく、本来個人的で自然なものであるはずの感情を仕事に使うというところに無理が生じて疲弊するという面があります。バーンアウトの背景にも、ケアのこうした「感情労働」という側面があるのだろうと思います。
研究事業をとおしてさまざまな文献を読んだり議論をしたりしましたが、「感情労働」に関する研究のなかには、「感情労働者が、いかに本来の生き生きとした自分の感情や人間らしさをとりもどすか」とか、「感情を管理するスキルを伸ばして、それを評価しましょう」というものがありました。
そして、そんな文献を読んで、「じゃあどうしたらいいんだ?」「それってケアする人が本当に望んでいることなのか?」というところで、私の思考は停止し、混乱し、上記のような「腑に落ちなさ感」の残る仕事になったのでした。

ただ、この事業が終了した後に、一つだけ腑に落ちた言葉との出会いがありました。
ある方が文献で「感情労働」に触れていたのですが、その方によると、「感情労働」という言葉を最初に使ったホクシールドという社会学者は、感情操作を「日常生活に不可欠なアート(技法)」と位置付けていたそうなのです※。
英語の「art」(アート)には、「芸術」とか「美術」という意味のほかに、「人工、技巧」「わざとらしさ、作為」という意味があります。日本語で「アート」というときには、後者の意味で使われることはほとんどありませんが、英語の本来の意味には、「自然(nature)」に対して、人が手を入れたものという意味があるようです。

ホクシールドがどのような文脈でアートという言葉を使ったのか、当時、いろいろ文献をあたってみたのですが、元の文を探し当てることができませんでした。
ただ、わかったことは、ホックシールドは『管理される心―感情が商品になるとき』という有名な本のなかで、人と関わる仕事の、それまで着目されなかった側面(感情労働という側面)に着目し、丹念にそれを観察して記述したのですが、「だから、本来の自然な感情を取り戻すべきだ」とか、「技術として向上させて評価するべき」とは言っていないということでした。

「感情労働」を「アート」だと考えると、ちょっと楽しくなってきませんか?
もちろん「作為」という意味でもあるのですが、それは根源的には「アート」のもう一つの意味である「芸術」にも通じるのです。

ここで「芸術」を解説してしまうと野暮ですよね。そこで一旦ここは中村さんにバトンタッチしたいと思います。

季節の変わり目、どうぞ夏のお疲れが出ませんように。

2014年9月 森口弘美

※中河伸俊(1995)「構成主義の感情論」船津衛・宝月誠編『シンボリック相互作用論の世界』恒星社厚生閣